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 「あのぅ〜先輩…」
 さきほどのことがあるため、トオルの声は遠慮がちに二人を呼んだ。
 「なんだ、トオル」
 二人同時に振り向かれて、トオルは無意識に上半身を引いてしまう。
 「そのぅ…この人、足を滑らせて落ちたんでしょうか」
 「いや、それにしちゃおかしいぜ。なあ、タカ」
 「ああ」

 二人の確信を持った態度に、トオルは再度目の前の死体を見つめる。それでも何がどうおかしいのかわからない。
 迷子の子犬のような目で自分達を見る後輩に、タカとユージは深く溜め息をついた。

 「お前なぁ、人に頼ってばかりいないで、少しは自分で考えたらどうだ」
 タカは腰に手を当てて、正面からはトオルを見た。おマヌケなこの後輩は、自分より数センチばかり背が高い。普段はどうでもいいことだが、こういう時には腹立たしくなる。

 タカの横からユージも口を挟む。
 「頭は生きているうちに使えっていうだろうが、トオルッ」
 誰がそんなこと言ったんですかと問い返すことなど、今のトオルには到底できっこない。できるのは、またしても身体を縮めることだけだった。

 そんなトオルを見て、この辺で勘弁してやるかとユージの目が言う。肩を竦めることで、タカは返事を返した。

 ユージがトオルに解説を始める。
 「人間には自己防衛本能があるだろう。階段を上っている時に足を滑らせたら、お前はどうする?」

 問われたトオルは、ハッとした顔になった。
 「どこかに掴まろうとします」
 「誰もがそうして腕を伸ばすはずだ。だけど、この仏さんは…」
 確かに彼女の左腕は、完全に身体の下になっている。右腕は引き出す途中のように、手の甲から先だけが挟み込まれていた。

 タカは腰を落として、その右袖口を引き上げる。
 「ユージ…」
 「鬱血斑ね、たぶん左にもあんだろうな」
 「ああ、おそらくな」

 遅まきながら、トオルが答える。
 「縛られていたということは、殺しってことに……」
 「なるわけだ」
 出来の悪い生徒に疲れたとばかりに、ユージはゆっくりと首を回した。

 「この忙しい時に余計な事をしやがって」
 愛しい(?)銀星会に食らいつこうかという時に、こんな事件を起こす奴の顔など見たくもないが、見ざろうえなくなるだろう。捜査課に陣取るおタヌキ様が何を言い出すか、タカにもユージにも十分予測ができた。

 そして、悪い予感こそよく当たるものなのである。
 「鷹山、大下。この件はお前達が当たれ」
 案の定、署に戻った面々の報告を一通り聞き終えた課長は、目の前に立つ問題児2名にそう通告した。

 「課長っ!」
 二人で詰め寄るが、敵もさるものである。しれっとした調子で言い返されてしまう。
 「町田に解説してやったそうじゃないか。ならば、お前達の手で最後まで解きあかした方がいいだろう」

 「トオル〜」
 向けられた剣呑な視線の二重攻撃を避けようと、トオルが隣にいる田中の背に身を隠そうとする。隠れられると本気で思っているのだろうか。
 「えい、この狼藉者」
 このでかい荷物を引き剥がそうと、、田中は時代劇になっていた。

 「いい加減にせんか。とにかくこれは命令だ。今回の殺しは鷹山と大下。その他は引き続き前の事件を洗い直してくれ。くれぐれも慎重にな」
 「わかりました」
 並んだ面々はそう答えて、捜査に出向いていった。だが、未だ承服しかねる二人は、もちろん返事などしていない。

 「返事はどうした」
 課長がじろりと睨む。ここまできて下手に何か言おうものなら、伝家の宝刀が抜かれるだけだ。そう、『減俸』である。

 それでも、ユージは拗ねた口調で言ってみる。すんなり引き下がるのは、なんか悔しいのだ。
 「課長、俺達二人だけでやるんですかぁ」
 「なんなら町田を回すが」
 タカとユージは顔を見合わせて、声を揃えた。
 「結構です!」

 だてにこの二人の上司をやっているわけではない。問題児の扱いもだいぶ慣れてきた。とはいえ、時として予想外の行動をやってのける彼らの手綱を取るのはたやすくない。今回は無事に終わってくれればいいがと、近藤課長は引き出しを開けて胃薬を確かめた。



 「杉山千代子、56歳か。年より若作りだよな」
 「たしかにな。親兄弟なし、親戚とも20年以上付き合いなし。男関係多数」
 「全部当たるのかぁ」
 うんざりしながら、ユージはハンドルを右に切る。
 「しかたないだろ。まずは仕事先からだ」
 そういうタカの声も、うんざりしているのがみえみえだ。

 もう一度右に回ったところで、車を止める。
 「さて、行くか」
 うだうだしてても始まらない。さっさと片づけてしまえば、後とこっちのものだと気持ちを切り換える。

 「死んだ人のことをこういうのはなんだけどさ。世の中全て自分を中心に回ってるって感じの人だったからな」
 聞き込みから浮かんだ被害者の人物像を、総合して的確に表した言葉がこれである。

 それで男関係多数とは、ユージには信じられないことだった。
 「なかなかお付き合いしたくないオバサンだよな」
 「蓼食う虫も好き好きってやつだろう」
 どうやら、タカも同じ事を考えていたらしい。ユージは自分なら誘われても、絶対に遠慮したいと思う。

 「俺、すっごくグルメなの」
 「そうだったっけ」
 「ふうん、タカは自信ないわけだ」
 ちろんとユージがタカへと流し目を寄越す。タカはふっと微笑った。
 「まさか。そういうお前はどうなんだ」
 「もちろん自信満々!」

 たわいない会話の後に、自然な沈黙が訪れる。しばらくの間、どちらも一言も話さず、ボンネットに座って空を見上げていた。

 ユージがその姿勢のままで、静かに口を開いた。
 「なあ、タカ。手を縛って突き落とすなんて、相当な恨みがあったんだろうな」
 「今のところ、そうまでしそうな奴は浮かんでこない」
 「そうなんだよな…」
 目ぼしい収穫を得られないままで、冬の陽はまた暮れようとしていた。


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